研究ノート

期待とは、誰のものなのだろう

人から期待されることを、重いと感じることがある。

期待されること自体は、本来なら悪いことではない。むしろ信頼されているとも言える。

それなのに、なぜ重く感じるのだろう。

考えてみると、期待そのものよりも「応えられなかった時」が怖いのかもしれない。

期待された。
でも、その通りにできなかった。

そんな時に、相手を裏切ってしまったような感覚になる。頼まれたわけでも、約束したわけでもないのに、なぜか申し訳なくなる。

それが続けば、期待されること自体を避けたくなるのも分かる。

一方で、逆の立場になることもある。

誰かの悪いところばかりが目につく時、もしかすると自分がその人に期待しすぎているのかもしれない。

「これくらいやってくれるだろう」
「この人なら分かってくれるだろう」
「普通ならこうするだろう」

相手はそんな約束をしていないのに、自分の中ではいつの間にか基準が出来上がっている。

そして、その基準を下回ると失望する。

考えてみれば、期待とはずいぶん一方的なものだ。

もちろん、過去の実績や能力など、期待するだけの根拠がある場合もある。

でも、いつもそうとは限らない。

たまたまうまくできたことで「この人はできる人だ」と思われたり、自分が意図した以上に能力を高く見積もられたりすることもある。

そして期待は、本人の知らないところで膨らんでいく。

さらに厄介なのは、期待そのものはそれほど大きくないのに、受け取った側が勝手に大きくしてしまう場合もあることだ。

「きっとここまで求められている」
「失敗したら失望される」
「次も同じくらいやらなければ」

相手が本当にそう思っているのかは分からない。

期待する側も、期待される側も、事実とは別のところで勝手に期待を育ててしまうことがある。

そして、その期待に振り回される。

では、期待とは誰のものなのだろう。

相手が自分に抱いた期待は、自分が引き受けるべきものなのだろうか。

自分が誰かに抱いた期待を、その人が満たす責任はあるのだろうか。

期待と約束は、どこで分ければいいのだろう。

そして、期待に応えることと、期待に支配されることの境界はどこにあるのだろう。

仮説

期待を「相手から渡された責任」だと思った瞬間に、期待は重圧になるのではないか。

期待は、本来は期待する側の中にあるものだ。

「この人ならやってくれるかもしれない」と思うことと、「この人はやらなければならない」ことは違う。

けれど期待された側が、それを「応えなければならないもの」として受け取ると、いつの間にか自分の責任に変わってしまう。応えられなければ、失望させた、裏切った、と感じてしまう。

逆も同じなのかもしれない。

自分が誰かに期待した時、その期待を「相手が果たすべきもの」だと思ってしまえば、応えてもらえなかった時に不満や失望が生まれる。

期待すること自体が問題なのではない。

自分の中に生まれた期待と、相手が引き受けた責任を混同することで、期待は重くなるのではないだろうか。


3310Lab 研究ノート No.012