「無知の知」という言葉がある。
自分が知らないということを、自分で知っていること。
昔から知っている言葉だけれど、改めて考えてみると、これは単に「謙虚でいよう」という話ではない気がする。
知らないことを自分が認みとめれば、「じゃあ知ろう」と行動できる。
逆に、自分が知らないことを認められなければ、知るための行動も起こせない。
そう考えると、「知らない」と認めることは、学ぶためのスタート地点なのかもしれない。
目次
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「知らない」を知られるのが怖かった
和菓子職人として働いていた頃、分からないことがあっても、人に聞けない時期があった。
「そんなことも知らないのか」と思われるのが怖かったのだと思う。
分からないから聞きたい。
でも、聞けば自分が知らないことが相手に伝わってしまう。
だから聞けない。
今考えると不思議な話だ。
知らないから聞く必要があるのに、「知らないと思われたくない」という理由で、知る機会を自分から捨てていた。
つまり、知らないことそのものよりも、知らない自分をどう見られるかを気にしていたのだと思う。
「自分は何も知らん」と決めてつけた
ある時から、考え方を変えた。
「もう、自分は何も知らないバカだと思ってしまえばいい」
そう思うことにした。
知らないのだから聞けばいい。
「そんなことも知らないの?」と思われてもいい。
だって、知らないのだから仕方がない。
それよりも、一つ聞けば一つ知ることができる。
だったら、どんどん聞いて、全部自分の学びに変えてやろうと思った。
そこからは、人に聞くことへの抵抗がかなり減った。
分からなければ聞く。
教えてもらったらやってみる。
そこからできなければ、また聞く。
それを繰り返しているうちに、少しずつできることが増えていった。
結果として、周囲からの評価も変わっていったように思う。
面白いのは、評価を守ろうとしていた頃より、評価を気にしなくなってからの方が、結果的に評価されたということだ。
プライドは、自分を守ることも邪魔することもある
もちろん、プライドが悪いわけではない。
仕事に対する誇りや、「ここだけは譲れない」というものは必要だと思う。
自分なりのやり方を考えることだって大切だ。
ただ、それが「知らないと思われたくない」「自分のやり方を否定されたくない」という方向に働き始めると、途端に学びを邪魔するものになる。
自分流にこだわって、うまくいくこともある。
でも、自分の持っている知識や経験だけではどうにもならない時は必ず来る。
そんな時まで自分のやり方にしがみついていたら、そこで止まってしまう。
必要なのはプライドを捨てることではなく、何を守るためのプライドなのかを見直すことなのかもしれない。
「知らない」は恥ずかしいことではなく、単なる「状態」
知らない。
分からない。
できない。
こういう言葉には、どこかネガティブな印象がある。
でも、それは単に今の自分の現在地を示しているだけなのかもしれない。
「ここまでは知っている。でも、ここからは知らない」
それが分かれば、次にやることはかなり明確になる。
調べる。
聞く。
教えてもらう。
やってみる。
つまり、自分の無知を認めるということは、自分を低く評価することではない。
自分の状態、現在地を正しく把握することなのだと思う。
そして現在地が分かれば、次に進む方向も分かる。
知らない自分を隠そうとしていた頃の自分は、現在地を隠すことに必死だった。
「自分は何も知らない」と認めてからの自分は、そこからどう進むかを考えられるようになった。
同じ「知らない自分」なのに、捉え方一つで行動はまったく違う。
仮説
人は「知らないこと」によって成長できなくなるのではなく、「知らない自分を認められないこと」によって成長できなくなるのではないか。
知らないこと自体は問題ではない。
むしろ「自分はここを知らない」と分かった瞬間に、次の行動が生まれる。
問題なのは、知らない自分を隠そうとすることだ。
分からないのに聞かない。
できないのに、できるふりをする。
自分のやり方にこだわり続ける。
それでは、新しいものが入ってこない。
だから、何かがうまくいかなくなった時には、
「自分の何が足りないのだろう」
と考えるだけではなく、
「自分は何を『知っているつもり』になっているのだろう」
と考えてみる。
そこに気づくことができれば、また一つ、学べることが増えるのかもしれない。
3310Lab 研究ノート No.010
